とりあえずななんちゃらら

TOKIOとか絵とかサブカル音楽とかその他ほにゃらら。

好奇心のきらめき/TOKIOニューシングル「クモ」レビュー

昔は雲を眺めながら色んなことを思っていた。
雲の流れはじっと眺めていると速く見えるなあ、
広いところで雲を見上げると、ほんとに空が丸く見えるなあ、など。
雲以外のことももちろん考えていたが、きりがないのでやめよう。

とにかく、雲を見ると、自分の普段の速度がいかに早いか、気付かされることが多かった。

今回のシングルは、そんなふうにもう一度、ゆったり自分を見返す機会を与えてくれた作品だと思う。

「シンプルなサウンド」
この楽曲を色んな音楽店や雑誌がそう紹介している。
わたしも最初にCDを開けて聴いた時は、こんなにシンプルでいいのか、と思ったし、こんな地味じゃ売れないんじゃないか、とすら思った。

フラゲしたあと、一日余裕があったので、当日用に絵を描こうと、わたしなりにこの曲を解釈することにした。
解釈と言っても、メモ帳に単語を走り書き程度なのだが、色んなことが見つかった。

少ない音(一番冒頭)→たくさんの音(一番サビ~)は心境が変化するストーリー性を表している?

二番冒頭のフワフワした音は雲の漂う音?

クモというタイトルで、ジャケットが水中なのは、空にも水中にも光が射すから?

では、空や水中の真ん中にいる自分自身こそが、光なのではないか?

サビのキラキラした高音については、好奇心を表しているのではないか?

などなど。
全部にはてなマークが付いているのは、個人の解釈であり、長瀬くんが自らのラジオで言っていたように、「音楽はイメージを決めつけちゃいかん」からだ。

でも、キラキラした音=好奇心という発想は自分なりに一番気に入ったたとえで、どこか歌詞に似通った点のある長瀬くんの代表作「リリック」にも繋がった。

「当たり前のことがどこか美しく見えた/リリック」
「ずっと見ていた景色も悪くないと気付き始めた/クモ」
その前後に繋がる、
「明日も君に会えると願う/リリック」
「明日も誰かに会いたいな どこに行こうかな/クモ」
の言葉。

「明日」。これは好奇心そのものではないかと思う。
明日を楽しみに想う力がなければ、生きる気力も湧かない。君でも、誰かでも、どこかでも、なにか探しに行けるものがあれば、人は楽しい。その探しに行くときのキラキラ色づいた景色が、クモのサビの風景で、生きる活力そのものなんだと思う。

長々と語ってしまったが、あくまで聴いた人それぞれに、それぞれの「クモ」によるストーリー、音を探してほしい。雲を見上げて空想した、幼いころのように。

そして最後に、この一見地味な一曲を、売れるか売れないか関係なく、「ストレート勝負のロックナンバー」と肩書きした長瀬くんに、ひたすら無骨さ、カッコ良さを禁じ得ないのである。

ぜひ気になったら買ってみてほしい。疲れた心をなぐさめ、また立ち上がらせてくれる、頑張れソングばかりではない今のTOKIOが、ここにあるから。

もう一曲目のstoryは、また今度書こうと思う。どちらも名曲であることを保証する。

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心の中の碧い海/舞台ダニーと紺碧の海感想(ネタバレ含)

昨夜はベッドの上で音楽を聴いてなぜかやたら泣いていた。

私を取り囲む音楽はみんなどこか反抗心に満ちている。なにが不満でこんなに胸が苦しいのか、わからないまま泣いて夜は明けて、翌日何事もなかったかのように生活して、また重たい何かを背負って、音楽を聴いて泣くのだ。

昨夜は特に胸がいっぱいで仕方がなかった。25歳なのに親離れできないどころか、親に監視されるような生活を繰り返していること。他人とうまく接することができないこと。精神薬無くては生きていけないこと。どこか自分の頭が浮世離れしていること。

そんなことを、いろんな音楽を聴きながら、思い出して、眠れなかった。

ウキウキしていたのもある。

翌日16日、つまり今日は、楽しみにしていた松岡昌宏主演舞台「ダニーと紺碧の海」の公演日だからだ。原作脚本も読んでいたく気に入った。

私はもうその時点で、主人公ダニーとヒロインのロバータに、救いを求めていたのかもしれない。

 

舞台が始まる前、席に座ってずっと目の前の舞台セットを見ていた。机と椅子がいくつかあって、奥にベッドがあって。ここでこれからダニーとロバータが座ったり喧嘩したり愛し合うのかと想像して、開演前からとても幸せな気分になった。

なぜ幸せな気分になるのか、その時点では輪郭が曖昧だった。

穏やかなピアノのBGMが響いて、舞台は始まった。

 

ロバータが、バーのつまみを食べているところから始まる。

まず、私の席は出入り口のすぐ近くにあって、そこから突然ダニーが現れた。いわゆる花道、というものだろうか、目の前をダニーが通り過ぎて行った。

その時まだ私はダニーを「松岡昌宏」として見ていたような気がする。凄い筋肉だ、とか、背が高い、とか、人並みのファンのようなことを思った。

とにかくずっしりしていた。

バーでのダニーとロバータの会話は、突然憤怒したり、突然人を殴った自慢話をしたり、突然自分の置かれているひどい状況を嘆きだしたり、とにかく激しく唐突なものが多い。

今思えばそれが自己紹介的な介入演出だったのかもしれないけれど、私には脚本作者の叫びに聞こえた。叫べないけれど喉の奥から大声で叫びだしたい、気が狂いそうなほどの焦燥感。

ロバータは声を震わせて言う。

「突然叫びだしたくなるの。わかる?」

意味もなく、獣のように。それは、窮屈から生まれるものだと私は思う。

一方ダニーは白目がちの目をぎょろぎょろさせながら、そのずっしりした身体を酔いと共にだるそうに動かしながら、時に奇異な行動をとりつつ、ひたすら自分の話をする。相手の話なんか聞きたくないとでもいうように。

そんな二人も、ふとシラフに戻るときがある、でも、またすぐに奇行を始める。

恥ずかしいんだろうか、見せたくないんだろうか、どれが自分なのかわからないのだろうか。

やがて二人は、自分たちの気が合うことにうっすらと気付き、だんだんテーブルの距離を縮めていく。警戒しながら。他人を拒みながら。

「呼吸を意識すると息が苦しくなるんだ!!苦しい!!」

「(ダニーに首を絞められながら)もっと!!」

やがて観客は「この二人はいつ死んでも構わないような心持ちの人間なんだ」とうっすら思う。しかしきっと死を望んでいるのではないのだ、得体の知れない心の恐怖や不安に、締め殺されそうなだけで。

 

そしてひとしきり吠えた二人は、お互いと話す居心地の良さに気付く。

そこでロバータは家に招きダニーに提案する。

「今夜だけ、二人でロマンチックになろう」

 

また穏やかなピアノが流れ、二人はまるで普通の恋人のように、夢のように、優しく名前を呼んで、愛をささやき合う。

私はあまりの美しさに終始泣いていた。あまりにも二人が幸せそうだったから。

ここで思い出した。なぜ私は開演前からっぽの舞台セットを見ながら幸せな気分になっていたのか。

他人の幸せに、もう見えなくなっていたのだ。怒鳴り、苦しみ、うずくまって泣き出し、人を傷つけて、

そんな二人の、一夜だけのあまりに幸せな世界。

ダニーはロバータの部屋の棚に置いてある花嫁人形を持ち上げ、さも愛おしそうに言う。

 

「俺は、花嫁になりたいんだ。結婚式を見に行ったことがある。きれいな白いドレスを着て、みんなに祝福されて、綺麗なばらの咲いた庭もある。着飾った子供たちはライスシャワーを花嫁になげる。やさしく。すごく…幸せそうだった」

 

涙が止まらなかった。認めてほしい。幸せになりたい。幸せの象徴が結婚式として描かれているが、恋愛なんて関係なく確かだとおもった。ウエディングドレスは綺麗だ。花嫁は綺麗だ。これからの、過去のしがらみなんか関係なく、その瞬間だけは、すべての人がおめでとうと言ってくれる。許してくれる。心や景色が、やさしい、美しいものでいっぱいになる。

ダニーはロバータにプロポーズする。OKの返事をしたロバータと手を取り合って、喜ぶ。

 

いくら苦しい日々にまた潰されることがあろうと、この舞台のこの場面が、文として、舞台として存在している限り、私はまだ生きて行けるような気がした。結婚願望なんて塵もないけれど、この二人はきっと夢の具現化だ。苦しいときに逃避する、きらきらした世界の具現化。それを目の前で、手の届くところで見られた。幸せで胸がいっぱいになって、泣きながら微笑んでいた。

 

そして翌朝ダニーはロバータに結婚を本気で申し込む。ロバータは昨日のプロポーズは嘘っぱちと言う。でも本心、彼女は結婚を望んでいることをダニーは知っている。やさしく諭す。

 

「誰も私を許さない、私は性悪なの、罰なの!!!」

 

「じゃあ俺がその罰を許すよ。みんな、みんな許す」

 

そして二人は親族も知り合いも呼ばない結婚式の約束をし、幕は下りる。

何度も許すよ、許すよ、と泣きじゃくるロバータに繰り返すダニー。

これは、あかの他人同士だったから成立する会話だ。憎むべき人に「許すよ」と言われても、私は嫌だし許せない。だから、この舞台の脚本家ジョン・パトリックは、きっと許してほしかったのだ。空想の世界で、空想のどうしようもない恋人たちに、どうしようもなくたって大丈夫なんだって、許してほしかった。救われたかったんだろうと、きっとそう思う。

だから神さまが存在するのかな、なんてことも思った。

終盤、もうずっしりとした印象の最初のダニーはいなかった。ただ、穏やかで、慈悲に満ちていた。

私を取り囲む音楽はみんなどこか反抗心に満ちている。なにが不満でこんなに胸が苦しいのか、わからないまま泣いて夜は明けていた。

でも、今はわかる。

 

今は嫌いな親のことも、ときに消えたい現実のことも、音楽が叫んで、吠えて、許してくれるのだ。音楽という、憎むべきものとも、悩むべきものとも何の関係もない天使たちが。

 

舞台は全体的に薄暗かったし、あまり色もなかった。

「紺碧の海」は、見た人の心の中で広さも色も測るんだと思う。

 

激しく、苦しく、やさしく、泣きそうな、素敵な舞台でした。ありがとう。

東京ドライブでどこまでも、都民じゃないけど。

やっとTOKIOファンとしてTOKIOのニューシングルレビューを書く日がやってきたぜ!!いやほんとに今までどうでもいいことを書いていてすいませんでした。

 

そもそもこのブログはツイッター廃人を卒業するついでにジャニヲタも卒業しちまおうとかなんかそういう趣旨のブログだった気がしないでもないけれど、今でも絶賛ツイ廃ですしTOKIO大好きでともやくん(呼び方が痛いのはネタです)のラジオ、NAGASE The Standardはほぼ毎日聴いてほぼ毎日ネタを投稿してますが読まれません。ナイキです読んでください。話が逸れがちな私ですが、真面目に簡潔にレビューしたいと思います。

 

今回のシングルは記念すべき50枚目うんたらとかサザンロックかっこいいねーうんうんとかZIPやら雑誌で耳タコな話はもはやみなさん求めていないでしょう。

とにかく聴いたことない人はどの程度いい曲なのか評価を求めているし、ファンの皆さんはファンから見た意見を聞きたいだろうし…すいません、東京ドライブ聴くのに熱中していいですか?というくらいカッコよくてクラクラしちゃって楽しい曲です。

ほんとにこの太字が全部語ってるのでレビューする必要なんてないんですけど(本末転倒)、曲に酔うのに我慢して、頑張ってレビューしたいと…あっ今ともやくんがハハァッ!って笑いました!!この男気とヤンチャ溢れる楽しそうな笑い声も最高に楽しんでる感じが伝わってきてテンション上がるんですよね~~~~!!!…静かに。

 

1.東京ドライブ

タイトルで潔く曲を表すっていうのが、珍しいらしい。たしかにジャニーズは「この曲名は、この歌詞の恋の行く末を語っていたのか~!!!」というタイトルが多いですもんね。そんなこと誰も思いませんけどね。

でも、漫画やドラマや映画に変換すると、内容を簡潔にタイトルで表現するというのは、インパクトの面でとても役立ってますもんね。だから、言ってしまえばこのタイトルからジャケ写、曲の雰囲気、PVの流れなんかが全部イメージできちゃってるわけです。長瀬智也すごいな!!!(1長瀬すごい)

そんでもってかっこいいと思ったのが、歌詞を「僕たちの東京ドライブ」で〆てるんですよ。分かりやすく言うと初代アニメワンピースの主題歌「ウィーアー」も「ウィーアーオンザクルーズ、ウィーアー!!」で〆てるじゃないですか。あれの印象の強さと似ている。「東京ドライブ」って曲だから、歌詞の締めも「東京ドライブ!」。まるでひとつの映画を見終えたような気持ちよさに浸れるわけです。長瀬智也すごいな!!!(2長瀬すごい)

 

曲は、もう、イヤホンでイントロだけでも聴いてください。多分その続きも聴きたくなる、すごい重低音。最初のシンプルかつ、まさに階段からスポットライトを浴び、渋カッコいい男が降りてくるような迫力あるドラム、どこのロックバンド!?って興味を持たせるような離れないギターリフ。ソリオってこんな車なの?ってちょっと誤解を招きかねないお高いイメージです。頭のなかで空想のドライブカーまで想像させちゃう長瀬智也くんすごい。(3長瀬すごい)

 

途中に入る「ブンブンブンブン」というコーラスは、バッキングトラックで聴くとわかるんですが、ベースやギターの重みで土台ができてて、実はそんなに多人数で歌ってないんです。土台から作るってTOKIOじゃないんだか…TOKIOだった。それでも際立つ国分太一くんの低音ボイスもかっこいい。TOKIOファンじゃない人は「低音ボイスは国ブン太一くん」と、語呂合わせしておきましょう。テストか。車のブンブン擬音をコーラスに使い、かつ国ブンくんにブンブンいわせる長瀬智也くんの言葉遊びすごい。(4長瀬すごい)

 

あとは曲展開。今までの曲のようにAメロBメロサビ~♪っていう当たり前感をジャニーズ的に裏切ってくれて、新しいバンドの曲として何度も何度も繰り返して聴けて、一番と二番との結構大きく違うメロディーの流れや、楽器勢の音の変化を楽しむことができる、それが一番楽しい。どの音も一音一音工夫してるんだなあと、音楽家の産む苦悩や楽しさを本人じゃないのに味わえるところがもう気持ちいい。この曲は気持ちいいんですホントに。

そして時折入る掛け声ともちがったいわゆる「ノッてるぜーい」なともやくんの「オーウ」や「アーン」という声はセクシーで(なんかいやらしいな)、こういうのも音楽を盛り上げる為に計って入れてるのかと思うと…長瀬智也くんずるい。(1長瀬ずるい)

 

まあ長瀬智也くん贔屓の方でなくても、すごい!!かっこいい!!と各々の担当に燃えて燃えて塵になることでしょう。ていうかこの曲はTOKIO全員がかっこいいよ。フォローじゃなくて、もう、もう、ホントに歌詞通り音でおもてなされてる感じで、それで「たまにゃこんなところも、悪くないと思いませんか?」と言われたときには、全世界の男性がTOKIOになればいいのに…そして口説いてくれ…と感じてしまう次第です。

 

ホントはPVとか2、3曲目も本気でレビューするつもりでしたが、表題作を熱く語りすぎて2000文字超えてしまいました。うるさかったね!!そしてともやくんが一番伝えたかった「昭和の男」について一言も触れてないよね!うん!!なんか曲調、バブリッシュだよね!!!金持ってそう!!!(バブル崩壊後に表れた人類の爆弾発言)

 

いやいや、「昭和の男」に収まらない名曲ですよ。

購買を強要するわけでもないけど、とにかくベタ褒めしたかっただけです。とにかくタワレコ試聴コーナーのイヤホンで聴いてくれよ。頼むよ。

男性諸君から聴いてどんな感じなのかも気になります。これはホント気になる。ぜひリンクかなんかで語ってみてください。

 

では、このあとも安全ドライブで!!ブロローン!!!

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おまけのいちにち、誰と過ごす?私は筋少と。

ジャニヲタになってからめっきり筋肉少女帯とご無沙汰になってしまった。曲は聴くけれど、TOKIOにハマってからは、しばらくライヴに行っていない。アニメタイアップでオーケン冷め期を通してジャニヲタへ…まるで彼の作ったお話みたいな展開です。

寂しいと思うことはほぼない。だって彼らは定期的にライヴしてくれるし、カルトなファンもたくさんいるから、大丈夫。曲だって色褪せない。でも、行きたいなあ、行ったら楽しいだろうな、変わらず楽しいだろうなあ。そんなことを思いながら、今回のアルバムを買いました。

 

筋肉少女帯「おまけのいちにち」。この言葉はオーケンがよく使います。たしか初めて出逢ったのは”何処までも行ける切手”という曲の台詞部分だった気がします。神さまが哀れな子に贈ったおまけの一日。他の曲にもそんなフレーズが出てくる。どう過ごすかは歌詞に出てくる人間次第。その「おまけのいちにち」を、今回筋少は、ファンに与えてくれたんだと思う。

 

今回は簡潔に、曲レビュー。

 

1.大都会のテーマ(TVサイズ)

おばあちゃんがよく見ている大都会(アクション刑事ドラマ)のテーマだろうか…と思ったらまさにそれだった。おばあちゃん世代なのかもはや…!?しかしすごい!ほぼ完コピ(笑)原作はyoutubeにあるから聴き比べてみてほしい(笑)余談だが、TOKIOの長瀬くん主演の刑事ドラマ”クロコーチ”の登場シーンでも似たような雰囲気のテーマが使われていた。オマージュだったらうれしいな。映画・ドラマのテーマ曲から始まるアルバムは、あとはオーケンのソロアルバムのI STAND HERE FOR YOUがある。

 

2.レジテロの夢

レジスタンスとテロリストでレジテロ。反抗運動とテロとの境目のない戦いの世界。メルヘンカオスな世界観、でもめずらしく社会的な歌詞?安定の橘高曲で美しいです。ピアノのエディはなんで正式メンバーじゃないのかってくらいピアノソロかっこいい。(音楽面は全く語彙がない)

最後に転調してやさしい曲調になります。夢を見るレジとテロ同士の戦いの瓦礫の中、誰もがみんな微笑み合っていた過去があったよね、だから現実に帰ろう、みたいな筋少なりの近頃へのメッセージかなあ。

 

3.混ぜるな危険

でましたアニメタイアップ曲。うしおととら読んだことないんだけど読んだ人にはしっくりくるらしいし、兄もうしとら好きだからハマってくれたらなあ、みたいな曲。

わたしはオーケンのアニソンがそこまで好きではないっていうか、カラオケでは盛り上がるんだけど、それ系統ジャンルにのめり込まないでほしい感はあるので、そこまで推してません。でもアニソンとしては水木一郎アニキ(一回コラボした)が歌ってもいいかんじのキャッチーな曲なので、それは花丸!!

 

4.球体関節人形の夜

明らかにギタリスト橘高ふーみんを意識しまくったタイトル、しかも「夜」!!!

高校の頃大槻×橘高でキャーキャー言っていた私にはもう得しまくりの曲。40オーバーの人になにを求めているんだろうね!?(本人たちがやおいの存在をネタにしているので私もネタにする)

イントロが再殺部隊みたい。思わずヘドバンしたくなる様式美な曲です。人間にもうなれないのなら、人形になって夜を過ごそう、ぶっ壊れるまで踊れよ…ヤバイ!!そして筋少ファンの中でもやはり人気曲なようです。

 

5.枕投げ営業

こういう女の子が出てくるのトンデモ展開の筋少曲めっちゃ好きです。ということで私はこの曲がお気に入り。枕営業をしに行ったはずが、営みの先のセンセーが「枕営業もいいけど、枕投げ(物理)ってのはどう?」って言っちゃう曲です。女の子とセンセーがホテルで枕投げしてる様子がすごくかわいい…ずっこけちゃっても相手に全力で挑めば夢は叶う!みたいな夢いっぱいの曲。そういうの好きです。すごく好きです。

 

6.LIVE HOUSE

タイトル的にツアーファイナルてきなアレかな?と思っていたら、おいちゃんの例のアレ。

いや昔ライヴ通ってたときに、ツインギターの片方の本城さん通称おいちゃんが、「ギターギターケースに今夜は君をつめこんで、ベイベー」という曲を昔作っていた、とオーケンに暴露され恥ずかしがっていたシーンがあったんですね。それが現実になりました。FULLバージョンで。内田のラブソングくらいの需要だよ。ファン以外無視してるよ。ライヴでの茶番が楽しみすぎるの極み。あと初期のTOKIOに歌って欲しいくらい歌詞がベタベタです。おいちゃん…。

 

7.別の星の物語り

ヴォサノバ調、ギターがさわやかな、オーケンの声がやさしいキラキラしたバラード。こういう曲弱いです…。歌詞は”その後or続き”のアナザーエンドみたい。既婚者の彼女に出逢って、あの頃はおとぎ話みたいだったね、っていう苦くて甘いお話。しかしこういう既婚者やら独身の元カノに会うの好きだなこの人は。こんな世界味わってみたいです。もちろん彼女側で。(真顔)

 

8.私だけの十字架

これもどっかのドラマからとってきたらしいんですけど、マニアックすぎて私はググる気にもなりませんでした。自己満すぎるだろ!!クラシックギターの弦弾きはすごい美しいです。元ネタがわからないから誰のマネかかわらんけど現代っ子の私には声が三輪明宏にしか聴こえない。

 

9.大都会のテーマ

序盤のFULLバージョンです。イントロなので演奏面がすごく際立ちます。実際に聴いたら鳥肌だろうなあ。ライヴ~~(お腹を壊して母にライヴ行きを止められている娘)でもこれだけは小さいとこじゃなくて武道館あたりで聴きたい。

 

10.時は来た

とっても筋少らしい~!好きです。時は来たって誰の名言だっけ??筋少の音楽は鬱々した人々をカルト化させるための道具であり、今その時が来たのだ!JPOPを聴いてる明るいやつらをぶっこわしに行くんだ!というひどい内容です。でもよくオーケンは教祖になりたがる系なのでわたしは喜んで従っちゃう系です。なんか軍服とかで…歌って欲しい…(個人的な趣味)

 

11.おわかりいただけたろうか

またそんなネットでよく使われるようなスラングを…とおもいましたが、思いのほかキュンキュンしてしまいました。黒歴史化した記憶の残像。チラチラフラッシュバックするたびに、まるで心霊写真のように見ないようにしていた私。泣きメロに合わせてオーケンが歌います。

「ほんとにそうだろうか?記憶の亡霊 優しい目をしてないかい?」

黒歴史として片づけてきた、昔愛していたたくさんのものたち。今なら許せるでしょう?ところで、僕が君のこと、愛していることは、お わ か り い た だ け た だ ろ う か。こんなんオチない以外のなにものでもないでしょう~~~;;ファンに戻れと言っているようなもんでしょう~~~~;;;;

 

12.S5040

こういうちょっと不気味な曲作れるのも相変わらず。悪酔いしそうな不思議な世界です。こういう変なUFOの輝きみたいな独特さは、オーケン著の短篇集くるぐる使いの雰囲気に似ているなあと思いました。それを表せる作曲のうっちーすごい。吸い込まれそう。歌詞もちょっとよくわからなくて、頭がボワーンとしたあとで、そろそろアルバムも終わりです。

 

13.夕焼け原風景

タイトルからノスタルジック。ちょっとさっきの曲の歪みをメロディーからも引きづりつつ、とってもやさしい曲。ゆうやけこやけを聴いて帰るような切ない、なんともいえない気持ちです。ナゴムレコードらしさがちょっと感じられて、やっぱり、みんなの原風景はそこなのかなあとおもいました。

 

全体を通したストーリー的な一貫性はありませんでしたが、どれも頭に残る。

筋少曲のいいところは、一曲一曲がキャラクター化しているところです。どの曲もPVにしてみたい。ジャケ写にしてみたい!そう思えます。そしてついてきてくれるファンにはそれなりのサービスをしてくれるところ。新しい挑戦も大事だけど、「あ、いつもの筋少だな」って思えるところも。みんな好きです。

どんどん老いていく(一人は永遠の24才)メンバーだけど、歳の重みとか関係なしに、むしろそれをネタにして頑張って頂きたい!長文失礼しました。ライヴいきたーーーい!!

続・歌詞に出てくる「あなた」がいない

何か月ぶりの更新だろう。おはようございます。

夏はやっぱり23才の夏休みだったけれど、それなりに楽しかった。今も安定して元気で、傷つくことはあっても落ち込み死にたがることはあまりなくなった。

私は今の今まで、自分が幸せになることを夢見て生きてきた。もちろんそれは今も変わっていない、だけど、その幸せっていうもののハードルが少し下がったような気がする。

そう思ったのが、一昨日から聴いている邦ロックもろもろの影響だった。

 

いろんな曲を聴きながらなんとなく心を添えつつ絵を描いていて、感じたこと。

曲のサビのラストパートはだいたい幸せハードルが高い。

生きていこうとか、本当の自分を見つけただとか、君と出逢えてよかっただとか、愛がなんちゃら、世界が愛しいなんちゃら。そんで壮大なメロディー。

だけどそれって、実はミュージシャンの伝えたいことのおまけの部分なんじゃないかって、そう思った。

 

だいたい私が共感するのは曲の1番、2番の中盤ぐらいだから。

「あ~わかるわかる、そう、人生って辛いんだよね、今頑張ってんだよね」

と共感してる所から、突然最後に突き放される。

 

”辛いよな、だったらてっぺんを目指せ!!見返してやれ!!彼に会いにいこう!!”

 

みたいな。修造かアンタらは。その瞬間突然孤独に見舞われる。「だからその、いきなりのポジティヴをやめてくれ!私はひとりなんだ!アンタらみたいに恵まれてないんだ!」となる。

 

だけど思いたい。ミュージシャンはずっと夢想家だから。理想主義だから。

ほんとは彼らも「あなた」がいないから、それが原動力になって、あんな長ったらしい詩を、曲を、つらつらと書き連ねているんじゃないかと。それで、仕方なくオチをつけるために、自分の理想像をみんなに魅せたくて、歌ってるんじゃないかと。

救いのない曲などない、死に向かう曲だって、生きる方へ歩く曲だって、結局ハッピーエンドとわたしは解釈して曲が終わる。

 

ハッピーエンドと解釈しているということは、羨んでいるんだろうか、納得しているんだろうか。たぶんどちらでも。他人のめでたしめでたしにうぬぼれることなんて不可能だ。じゃあ、なぜ曲と自分を重ねあわせることができるのか。

 

私は歌詞に出てくる「あなた」じゃなくたって、「僕」にはなれるから。

ミュージシャン自身と解釈は違えど、心を通わせることができる瞬間。それが一番幸せなんだって思った。誰かの為に歌ってることには変わりはない。けれど、それは私の今まで考えていた恋情や友情を込めた「あなた」像とは違うんだなって、思った。

 

この文章みたいに。無理やりにでも幸せな方へ向かって終わる。相手がいなくても底抜けに明るい曲を何度も何度も聴ける、いいところだけ拾って。

 

”君だけだよ”、”君次第さ”みたいな歌があったとして、それをボーカルの気持ちで一緒に歌いたいと思う。

そんな感じで、絵を描いています。

 

ちなみに、続・○○というタイトルは大槻ケンヂの曲タイトルにありがちなものです。いわゆるエピローグだったりその後パラレルだったり。みんなハッピーエンドで終わるんだよ。

リピート

ブログをしばらく休んでいたわけだけど、その間なにしていたかというと深く深く落ち込んでいた。別に、なにかがきっかけってわけではないんだけど、いつも私は、心の奥底に「自分が生きている意味はあるのか」という想いを密かに抱えていて、それがあるとききっかけもなしに大きく大きく全体を支配してしまうのだ。

 

昔はそうなるともう泣きわめいて思考停止してその状態がずーーっと長引いていたのだけれど、人生長くなると、あ、またコイツが現れた!と自覚することができる。

 

けれど生きる意味を失ってしまうともう抗いようがない。だから、なんとかやりすごすしか方法はない。どうやってやりすごすかというと、ひたすら悶々と自分について絶望する。音楽も聴かず、浪費もせず、本も読まず、食べ物もたべずにただ死に向かうことを待つ。

聞えはすごくネガティブだけれど、絶望することで自らどん底に落ちることができる。つまり、深く深く落ちるところまで落ちれば、あとはまた浮きあがる展開が待っているという無限ループを利用した作戦だ。

 

去年の夏はやりきれなさすぎて、なんと絶望の淵に落ちるために真夜中、近所の大きな川へ飛び込んだ。そして寸でのところで犬かきをして這い上がって無事生還、夜中のシャワーで体にへばりついた藻を落としながらまあもう少し生きてみよう、と思い直したのだった。そこまでしなくてもいくらだって方法はあるけれど、他人から見た私の命の重さだってあるけれど、正直私はそうでもしないと自分の価値がわからないバカの中のバカなのだ。(バカボンのパパのまねではない)

生きる意味が自分の中にないときは他人や世間の歌もことばも面白いこともなにも頭に入ってこないし、自分自身でなんとかするしかない。

 

ちなみに今回は何をしでかしたのかというと、特に何もしていない。精神科でさんざん生きる意味の無さを語ってカウンセラーを困惑させたぐらいだ。何もしないのが一番ツライ。今日もブログをかいたらまた絶望しようと思う。辛ければ辛いほどあとで立ち直った時楽だからね。

 

きのう、遠方に住む方と長い電話をした。実に年末ぶりに話した。その人は私の性分を把握しているが、普段明るく接しているので、「生きる意味の無さ」を突然切り出されたとき、少し戸惑っていた。でも、ありがたくもこう言ってくれた。

「そういうときって、生きることにもうだいたい満足しちゃったんじゃないかな」

そうだと思った。私がそういう死への魅力にかられるときは、劣等感や嫌世ではなく、もうだいたいしたいことをして満足してしまったのだ。

夢を知った保育園。楽しかった小学生。人を恨むことを覚えた中学生。多感に哲学した高校生。精一杯絵を描いた大学生。たくさん人と関わって遊んだ、描いた、今まで。

 

20歳ぐらいまでで終わってもよかったと思う。というか、ずっとそう思っている。

でも、そしたら人類は成り立たないし、音楽も漫画もなかったし、自分の中でこの世に善意なんてなかったことになってしまう。人からもらった恩恵は無駄にしたら失礼だ。

 

たぶん今の人生はもうすでにおまけと化している。もしも幸せが待っていたって、それは以前の幸せな記憶の再生であって、結婚とか、子どもとか、もしも夢がかなって絵本作家になったりなんかしちゃったり…そういう出来事だって、人が何千兆と繰り返してきたことだし。それを言っちゃお終いよ。

だから、なんとかやりすごしながら、一歩一歩、寿命にむかってひたすらに歩んでいこうと思う。

同じ曲を何度リピートしても飽きないのは、深く落ち込んで、また立ち直りを繰り返しているからなんだなあと思う。

とりあえず、生きるよ。しぶとく、おばあちゃんになるまで。

あさのひかり

晴れの朝の光はなんだかワクワクする。ずっと実家の同じ部屋から見てきた朝陽。「清々しい朝」と言っても、ほんとにその通りの朝もあるし、夏休みのラジオ体操のときみたいな特有のドキドキした朝もあるし、お泊りのお別れで泣きそうな朝もあるし、まるで浴びたら世界が終わる、みたいな絶望的な朝陽もあったりした。

 

6時ぐらいからの特有の空気。家族みんなが起き始めて、飼い犬がわんわん餌をねだって吠えて、父と母が飲むコーヒーの香りがして、やがて魚を焼く香りがして、窓際のほこりがチラチラ光ってる。みんなお馴染みだ。昔は、もっと、色んな香りや、感覚があって、今でも鮮明に覚えている。

 

朝見るのは必ず目ざましテレビだったし、おばあちゃんがおじいちゃんの仏壇の鐘を鳴らす音も聞こえたし、お兄ちゃんが部活の用意してたり、お父さんが腕立て伏せをしていたし、お母さんは私を毎日必ず呼んで起こしたし、犬はもっともっと威勢よく吠えて、散歩に走っていた。

 

私は朝に対していいイメージを持つか、と聞かれたら半々である。

なぜなら暗黒期が人生においてものすごく長いから。

日の光がまるでワルモノの光線のように布団をかぶった自分に当たってくるときがあった。泣きながら顔を洗って、それでも鼻水と涙がどんどんでてきて、大声で泣きわめいて、腕立て伏せをしてるお父さんも、起こしてくるお母さんも、部活に行く際に茶化してくるお兄ちゃんも、威勢よく吠える犬も大嫌いだった。

目ざましテレビは大嫌いな薄っぺらいエンタメ情報を流し続けるし、友達と呼べないようなやつらがピンポンを押して、あるいは必死でストーブの前で体温計を調節して、、なんだかすごく鮮明で、そのときの朝陽は吐き気がするほど気分が悪かった。

 

幼少期はそれこそユーミンの「優しさに包まれたなら」の世界だった。毎日何時に起きたか自慢していたし、早起きした朝は特別な気分で家の中を散策していたし、おばあちゃんと一緒にテレビ体操をした。古い和式トイレで虫を見つけてギャーって泣き叫んだり、そのころは目ざましテレビの代わりにポンキッキーズかなにかが流れていたし、なんであんなに陽気な朝があったのか不思議だ。

 

今は、と言えば、まあ、それなりにわくわくしている。減ったものも多いけど、みんな記憶に残っていて、今思い出しながら、ドキドキしたり、さびしくなったり、今が今で良かった、と思ったりした。昔ほど朝の光に敏感ではなくなったかもしれない。

仕事のために身支度をして、ご飯を早めに食べて、庭の草木や虫の様子を撮ったり、余りの時間でブログを書いている。朝陽は自分を起こすただのスイッチになった。

でも、たまに、いやわりと頻繁に、どうしてあのとき、あんなに不幸だったんだろう、どうしてあんなに幸せだったんだろう、と思い出す。

そして、あのとき犬やお父さんやお母さんやお兄ちゃんやおばあちゃんがあんなに元気に動き回っていたことに、時の流れを感じて、すこし、切なくなる。

 

今はそれらを全部ひっくるめて、朝の光が好きだ。覚えておかなくてもいいことを、ここに書いてできるだけ覚えておきたい。