とりあえずななんちゃらら

TOKIOとか絵とかサブカル音楽とかその他ほにゃらら。

リピート

ブログをしばらく休んでいたわけだけど、その間なにしていたかというと深く深く落ち込んでいた。別に、なにかがきっかけってわけではないんだけど、いつも私は、心の奥底に「自分が生きている意味はあるのか」という想いを密かに抱えていて、それがあるとききっかけもなしに大きく大きく全体を支配してしまうのだ。

 

昔はそうなるともう泣きわめいて思考停止してその状態がずーーっと長引いていたのだけれど、人生長くなると、あ、またコイツが現れた!と自覚することができる。

 

けれど生きる意味を失ってしまうともう抗いようがない。だから、なんとかやりすごすしか方法はない。どうやってやりすごすかというと、ひたすら悶々と自分について絶望する。音楽も聴かず、浪費もせず、本も読まず、食べ物もたべずにただ死に向かうことを待つ。

聞えはすごくネガティブだけれど、絶望することで自らどん底に落ちることができる。つまり、深く深く落ちるところまで落ちれば、あとはまた浮きあがる展開が待っているという無限ループを利用した作戦だ。

 

去年の夏はやりきれなさすぎて、なんと絶望の淵に落ちるために真夜中、近所の大きな川へ飛び込んだ。そして寸でのところで犬かきをして這い上がって無事生還、夜中のシャワーで体にへばりついた藻を落としながらまあもう少し生きてみよう、と思い直したのだった。そこまでしなくてもいくらだって方法はあるけれど、他人から見た私の命の重さだってあるけれど、正直私はそうでもしないと自分の価値がわからないバカの中のバカなのだ。(バカボンのパパのまねではない)

生きる意味が自分の中にないときは他人や世間の歌もことばも面白いこともなにも頭に入ってこないし、自分自身でなんとかするしかない。

 

ちなみに今回は何をしでかしたのかというと、特に何もしていない。精神科でさんざん生きる意味の無さを語ってカウンセラーを困惑させたぐらいだ。何もしないのが一番ツライ。今日もブログをかいたらまた絶望しようと思う。辛ければ辛いほどあとで立ち直った時楽だからね。

 

きのう、遠方に住む方と長い電話をした。実に年末ぶりに話した。その人は私の性分を把握しているが、普段明るく接しているので、「生きる意味の無さ」を突然切り出されたとき、少し戸惑っていた。でも、ありがたくもこう言ってくれた。

「そういうときって、生きることにもうだいたい満足しちゃったんじゃないかな」

そうだと思った。私がそういう死への魅力にかられるときは、劣等感や嫌世ではなく、もうだいたいしたいことをして満足してしまったのだ。

夢を知った保育園。楽しかった小学生。人を恨むことを覚えた中学生。多感に哲学した高校生。精一杯絵を描いた大学生。たくさん人と関わって遊んだ、描いた、今まで。

 

20歳ぐらいまでで終わってもよかったと思う。というか、ずっとそう思っている。

でも、そしたら人類は成り立たないし、音楽も漫画もなかったし、自分の中でこの世に善意なんてなかったことになってしまう。人からもらった恩恵は無駄にしたら失礼だ。

 

たぶん今の人生はもうすでにおまけと化している。もしも幸せが待っていたって、それは以前の幸せな記憶の再生であって、結婚とか、子どもとか、もしも夢がかなって絵本作家になったりなんかしちゃったり…そういう出来事だって、人が何千兆と繰り返してきたことだし。それを言っちゃお終いよ。

だから、なんとかやりすごしながら、一歩一歩、寿命にむかってひたすらに歩んでいこうと思う。

同じ曲を何度リピートしても飽きないのは、深く落ち込んで、また立ち直りを繰り返しているからなんだなあと思う。

とりあえず、生きるよ。しぶとく、おばあちゃんになるまで。