とりあえずななんちゃらら

TOKIOとか絵とかサブカル音楽とかその他ほにゃらら。

続・歌詞に出てくる「あなた」がいない

何か月ぶりの更新だろう。おはようございます。

夏はやっぱり23才の夏休みだったけれど、それなりに楽しかった。今も安定して元気で、傷つくことはあっても落ち込み死にたがることはあまりなくなった。

私は今の今まで、自分が幸せになることを夢見て生きてきた。もちろんそれは今も変わっていない、だけど、その幸せっていうもののハードルが少し下がったような気がする。

そう思ったのが、一昨日から聴いている邦ロックもろもろの影響だった。

 

いろんな曲を聴きながらなんとなく心を添えつつ絵を描いていて、感じたこと。

曲のサビのラストパートはだいたい幸せハードルが高い。

生きていこうとか、本当の自分を見つけただとか、君と出逢えてよかっただとか、愛がなんちゃら、世界が愛しいなんちゃら。そんで壮大なメロディー。

だけどそれって、実はミュージシャンの伝えたいことのおまけの部分なんじゃないかって、そう思った。

 

だいたい私が共感するのは曲の1番、2番の中盤ぐらいだから。

「あ~わかるわかる、そう、人生って辛いんだよね、今頑張ってんだよね」

と共感してる所から、突然最後に突き放される。

 

”辛いよな、だったらてっぺんを目指せ!!見返してやれ!!彼に会いにいこう!!”

 

みたいな。修造かアンタらは。その瞬間突然孤独に見舞われる。「だからその、いきなりのポジティヴをやめてくれ!私はひとりなんだ!アンタらみたいに恵まれてないんだ!」となる。

 

だけど思いたい。ミュージシャンはずっと夢想家だから。理想主義だから。

ほんとは彼らも「あなた」がいないから、それが原動力になって、あんな長ったらしい詩を、曲を、つらつらと書き連ねているんじゃないかと。それで、仕方なくオチをつけるために、自分の理想像をみんなに魅せたくて、歌ってるんじゃないかと。

救いのない曲などない、死に向かう曲だって、生きる方へ歩く曲だって、結局ハッピーエンドとわたしは解釈して曲が終わる。

 

ハッピーエンドと解釈しているということは、羨んでいるんだろうか、納得しているんだろうか。たぶんどちらでも。他人のめでたしめでたしにうぬぼれることなんて不可能だ。じゃあ、なぜ曲と自分を重ねあわせることができるのか。

 

私は歌詞に出てくる「あなた」じゃなくたって、「僕」にはなれるから。

ミュージシャン自身と解釈は違えど、心を通わせることができる瞬間。それが一番幸せなんだって思った。誰かの為に歌ってることには変わりはない。けれど、それは私の今まで考えていた恋情や友情を込めた「あなた」像とは違うんだなって、思った。

 

この文章みたいに。無理やりにでも幸せな方へ向かって終わる。相手がいなくても底抜けに明るい曲を何度も何度も聴ける、いいところだけ拾って。

 

”君だけだよ”、”君次第さ”みたいな歌があったとして、それをボーカルの気持ちで一緒に歌いたいと思う。

そんな感じで、絵を描いています。

 

ちなみに、続・○○というタイトルは大槻ケンヂの曲タイトルにありがちなものです。いわゆるエピローグだったりその後パラレルだったり。みんなハッピーエンドで終わるんだよ。